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【いじめのとりせつ②】いじめはなぜ起きるのか いじめが起きる仕組み

いじめはなぜ起きるのか
waku

いじめを個人の問題として扱っていることに違和感を感じるのよね

Kuru

いじめの原因とは何かについて深堀りしていくよ

いじめのとりせつ①では、現在の日本のいじめに対する定義や取り組みを中心にお伝えしました。今回は、なぜいじめが起きるのかについて、まだ知られていない原因についてお伝えします。

✓記事の内容

・いじめは本当に個人の問題なのか
・いじめが起きる仕組みは脳にある
・いじめがなくならないのはなぜ?

目次

いじめは本当に個人の問題なのか

現在、いじめは個人の問題として扱われています。

個人の問題を前提としているので、「いじめる人間が悪い」「いじめられる人間も悪い」「監督する大人が悪い」と、誰かに責任を負わせる形として処理されているのが現状です。

ではどんな責任を追及すれば、いじめをなくすことが出来るのでしょうか。 民事訴訟や刑事事件として扱えば、いじめの抑止力となるのでしょうか。 社会問題として扱われてきたにもかかわらず、いじめが無くならないのはなぜでしょうか。

今回は、個人の問題ではなく、人間共通の脳の認識構造にいじめの原因があるという話をしたいと思います。

脳は認識構造を通して世界を理解する

認識構造とは、脳が世界を認識するときに必ず働く仕組みです。

認識構造は、その土台となる認識のクセと解析サイクル、それぞれの特性によって構成されいます。認識構造によって解析パターンが生み出されます。 (解析:考え、感情、イメージ)

認識構造の働きは無意識で行われています。私たちはまったく意識せずに、認識構造の仕組み通りに、考え、感じ、イメージしています。 認識構造の影響を100%であり、認識構造なくして考えることも、感じることも、イメージする事も出来ません。

いじめはこの認識構造が原因で起きてしまう現象です。

部分情報で全体像を決めつける

認識構造(認識のクセの特性)が働くと、「部分情報だけをとって全体像を決めつける」が起きます。

ひとつの映画を友人と見た時に、映画の感想は十人十色になります。 アクションや重厚な音楽を映画の全体像として印象を持つ人がいれば、人間関係の繊細な感性の描き方を全体像としてイメージする人もいます。 「私にとってあの映画は〇〇だった」と印象の違いを交流しながら楽しめるのは、認識構造が働いているためです。

また、上司のプライベートな話を初めて聞いて上司の印象が変わることも、上司の全体像を構成していた部分情報に変化が起きたためだと説明できます。

このように脳の認識構造は、部分情報だけをとって映画や上司の全体像を決めつけています。しかし、私たちはそのことに気付かないまま、自分の感想、本人が思ったこととして受け取っています。

過去の経験とつなげてしまう

同じ映画を見るために映画館に何度も足を運ぶ人がいます。 映画館で見るのは”一度だけでいい”という人から見ると、理解の範囲を超える行動に映るでしょう。

同じ映画を見る人も、一度だけでいいという人も、映画を見てしまえば、記憶というデータバンクに情報がインプットされます。(解析サイクル)

一度だけでいいという人は、もう物語を理解したから二度も見なくてもいい、と思うでしょう。 何度も見たいという人は、見るたびに、理解が深まり、あの伏線がこことつながるのかと気付けることがうれしい、と思うでしょう。

脳は過去のデータバンクにつなげて理解しますが、取り組み方が変わると、対象に対する理解の深さも変わります。
しかし、インプットされたデータバンクの情報をZERO化させることは出来ません。
私たちは常に、過去のデータバンクの情報に依存しながらすべての取り組みを行っています。そのことに私たちは気付いていません。

自分に対して働く認識構造

「部分情報だけをとって全体像を決めつける」「過去のデータバンクに依存している」は自分をどう思うのかという自己認識にも働きます。

脳は、自分の全体を全体として認識することは出来ません。理解する事も出来ません。 自分に対して理解することが出来るのは、必ず、部分情報だけで全体像を決めつけた結果のみです。

「仕事中の私」「プライベートな私」「異性を目の前にしている私」「苦しんでいる私」など、部分情報が変われば、様々な「私」が生まれてしまいます。

それらの「私」が過去のデータバンクにインプットされると、事あるたびに、「〇〇な私だから」と勝手な決め付けを前提とした解析が始まることがあります。
脳が勝手に連想した「〇〇な私」であり、心から「なりたい私」ではないにもかかわらず、その違いに気付かないまま、「〇〇な私」を前提に解析を続けてしまいます。

自分に確信が持てない

自分に対して認識構造が働くと、どんな部分情報をとるのかによって「私」という全体像が変わってしまいます。

自分のいる環境、置かれている状況、接している人間関係、自分の心情などによって、部分情報はコロコロを変わります。ある状況では自信が持てても、状況が変わることで自信が持てなくなる現象が起きます。

この結果、自分に確信が持てなくなります。

ここでいう確信とは、どんな条件・状況・環境でも自分をどう思うのかが変わらないことを指しています。

「脳の認識構造により、自分に確信が持てなくなる」これがいじめの根本原因です。

いじめが起きる仕組み

「脳の認識構造により、自分に確信が持てなくなる」と私たちは、どのようなことを考え・感じてしまうのでしょうか。

自分の確信の喪失を他者で補おうとする

脳は、確信が持てず、自分の不完全性を認識すると、すぐに足りない何かを探し、他者で補おうとします。

認めてもらおうとしたり、かまってもらおう、愛しもらおう、理解してもらおうとします。

十分に愛してもらい満たされたとしても、自分を認識した瞬間には、部分情報だけで全体像を決めつけてしまうため、また足りない何かを探そうとしてしまいます。

人間は常に、自己存在の足りない何かを補おうとする欲求が働いています。

自分の存在が存在できなくなる不安恐怖

他者は自分の思い通りにはならない存在です。

愛してほしいといくら願っても、常に愛し続けてくれる存在はいません。 理解し続けてほしいといくらお願いしても、すべてを理解し続けてくれる存在はいません。 自分が愛する側、理解する側になった時も、その思いを素直に受け取り続ける人はいません。

何をどう思い感じるのかを縛ることは不可能です。

これらのことを頭で理解していたとしても、私たちは相手に求めてしまいます。 その願いがあまりにかなえられない時は、自分が存在できなくなる不安恐怖を感じてしまいます。

自己確信の喪失が不安恐怖と結びついてしまうと、尊厳の喪失感へと移ってしまいます。

不安・恐怖が生み出してしまう思考

人は、自分が存在できなくなることに、強い不安と恐怖を感じます。

この不安恐怖を感じてしまうと、それを避けようとする思考が働きます。

・存在し続けられるように我慢しよう
・最も安全を確保できる環境を作ろう
・自分の存在感を感じられる関係をつくろう

我慢しよう

まずは誰もが我慢を始めます。 始めはちょっとした我慢から始まり、本人も気付かないままエスカレートすると苦しみを感じるようになります。

相談や報告が出来ず、我慢が続いてしまうと、諦めや心が折れ、ネガティブな方向へ進んでしまいます。最も多い事例です。

安全な環境を作ろう

自己存在にとって安全な環境とはどんな環境でしょうか。

自己存在に対する危機や不安要素が無く、人間関係の接触が最低限で過ごせる環境です。

はじめは、「元気がなさそう」「挨拶しなくなった」と周囲が思うくらいから始まります。
不安がぬぐえない日々が続くと、ふさぎこんで誰とも話をしなくなったり、自室にひきこもってしまなど、自分の内面に閉じこもり、孤立・孤独の方向へ進んでしまいます。

存在感を感じやすい関係をつくろう

存在できない不安恐怖を最も和らげるのは、自分という存在感を感じることです。

多くの場合は、カラオケや遊びに行くなどのストレスの発散や、誰かに本音で相談することを通して、今の自分でも大丈夫だと安心を感じることが出来ます。

しかし、自分よりも劣る存在をつくることで関係に優劣をつくり、存在感を感じてしまうことがあります。これを意図的に継続するのがいじめです。

いじめとは何か

現在の日本では、前の記事でお伝えした通り、「いじめ防止対策推進法」が施行され、いじめとは何かが定義されています。

児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。

子どもが苦痛を感じていれば、いじめと認定されることを示しています。

これまでに4度の更新がされ、現在の形に至っています。 しかし、これは個人の問題とする前提の定義です。

個人の問題とする前提では、加害者は罰せられ、被害者もいじめられた傷を負ったまま、さらに起きてしまったいじめをどう共有し学びに変えるのかについては、個人情報の観点から詳細は共有されず、根本的な解決の機会を失ってしまうことになります。

また、我慢を続けていたり、内面に閉じこもる課題については、何も取り組めないことになります。

いじめとは尊厳を補おうとする現象の一部

いじめの原因は脳の認識構造の仕組みにありました。 脳が勝手に部分情報だけで全体像を決めつけてしまうことで、自分に確信が持てず、喪失感を補おうとして、自分の尊厳よりも低い尊厳をつくりだすことでした。

いじめの原因は脳の認識構造にあります。 いじめという現象は、自らの尊厳を補うための手段として現れたものです。その発動は、自己存在に対する不完全さによる不安恐怖を強く感じている時です。

不安恐怖を感じている時は、前述したように、いじめとして現れる存在感を感じやすい関係づくりだけではなく、我慢や内面に閉じこもる傾向もあります。

つまり、いじめは尊厳を補なおうとする手段のひとつであり、我慢や内面に閉じこもりについても取り組まなければ、いじめの根本解決とは言えません。

いじめが無くならないのはなぜか

ここからは、いじめがなぜ無くならないのかについて考えていきます。

個人の問題にしてしまう弊害

いじめを個人の問題とする弊害についてお伝えします。

・個人を処罰すれは解決したことになってしまう
・個人情報保護の観点から詳細が共有されずらい限界
・自分事化しにくい当事者意識
・加害者、被害者になったときの思考停止
・現象として完結してしまう

個人を処罰すれは解決したことになってしまう

個人の問題にしてしまうと、加害者である個人を処分すれば、解決したこととして認識されます。
本当にそれで解決したと言えるのでしょうか。

ご存知のように、加害者にもいじめを行う背景があります。いじめが行われた環境にも、いじめが実行可能な状況があります。 いじめは個人によって行われたものだという前提では、「いじめの何が問題なのか」の深い理解を阻んでしまいます。

個人情報保護の観点から詳細が共有されずらい限界

現在では個人情報保護の観点から、詳細な情報が共有されず、何が行われたのかが明らかになりにくい状況があります。
いじめと認定される事案なのかの議論が優先され、事件が起きてから1年も経てようやく、いじめだったと認められることが起きています。

問題が繰り返されないようにするには、何が問題なのかを明確にし、当事者や関係者に共有され、認識を深める必要があります。しかし現状では、情報の共有は難しく、むしろ触れてはいけない問題として扱われてしまいます。

自分事化しにくい当事者意識

立場によって当事者意識は大きく異なります。 「あの人がいじめていた」「あの人だからいじめられていた」となれば、誰もが当事者意識を感じにくくなります。

人は多くの現象を自分とつなげて深く理解することはありません。 その根本には、「私は違う」「私は大丈夫」という自己存在を守ろうとする意識が働くためです。
全ての人が当事者であるという根拠がない限り、”いじめがまた起きた”と思うだけで終わってしまいます。

加害者、被害者になったときの思考停止

誰もが加害者、被害者、その関係者になる可能性があります。 いざ、当事者になった時に、すぐに相談できる相手やかけこめる場所があればよいのですが、すべての人にその準備があるとは限りません。

いじめが起きていると周囲が認知していたとしても、エスカレートがとまらず悲惨な事件となった事例もあります。
自分で対応出来ないことが目の前で起きた場合、いつのまにか孤立・孤独にはまり込むことがあります。
そこから抜け出すには、自我を失うほどの勇気とエネルギーが必要です。

現象として完結してしまう

何が問題なのかを深く理解する機会がなく、当事者意識として向き合うことがなければ、いじめは単なる現象として理解されてしまいます。
これが当事者とそうでない人の認識に大きな違いをつくりだします。
現象としてのいじめではなく、そこから学ぶべきことは何かと、尊厳に対する姿勢態度を深める機会にすべきです。

尊厳を補う手段の効果は一時的でしかない

尊厳を補うあらゆる手段の効果は一時的でしかありません。

さらに、尊厳を補っている自覚もなく、認識を深める教育がなければ、覚えた手段を繰り返し求めてしまいます。

脳の認識構造は過去のデータバンクに依存します。

一度過去のデータバンクにインプットされた尊厳を満たす方法は、解析を重ねるたびにエスカレートし、多くを失わせてしまいます。
「いじめてもいい存在なんだ」「尊厳を傷つけてもいい存在なんだ」「価値のない存在なんだ」と目の前の個人に対して、尊厳が劣る存在と決めつけ、行為を行えば、条件や状況の枠が広がり、より強い優劣を決めつけようとします。

大人は解決策を持っていない

個人の問題としている状態では、対処は出来ても解決は困難です。

子どもを守り、教育し、導く側の大人の状態が解決できる道筋を持っていないのですから、いじめが無くならないのは当然です。

まずは大人の側から、なぜいじめが起きるのかの原因や仕組み、発動する条件を観察できるようになることが必要です。 その上で、子どもたちの言葉にならない思いを引き出し、言語化して学びに変えられる教育が必要です。

哲学的思考力の欠如

現象的な理解にとどまってしまうのは、哲学的な思考がないことが考えられます。

日本の標準的な教育の授業には、哲学はありません。

正解のない問題に取り組む土台が教育の現場になければ、人間の本質的な問いについて応えられなくなります。
「人間とは何か」「どう生きるべきか」という問いを失った環境では、尊厳と対話する器は育ちません。

正解のある問いであれば、正解と向き合ってしまいます。正解のない問いであれば、各個人の違いと向き合うことが出来ます。 考え方の違いを通して、他者との違い、自分という存在、存在の喪失に対する不安恐怖を客観的に理解し観察する機会をつくることができます。

自分を客観的に観察する力は、心の平和を意識的に保つ力になります。

いじめられ、からかわれても、自分を愛して、だってそれが、あなただから。レディーガガ

まとめ

・現在、いじめは個人の問題として扱われています。
・いじめが起きる原因は脳の認識構造に原因があります。
・認識構造(認識のクセの特性)が働くと、「部分情報だけをとって全体像を決めつける」が起きます。
・「脳の認識構造により、自分に確信が持てなくなる」これがいじめの根本原因です。
・自己確信の喪失が不安恐怖と結びついてしまうと、尊厳の喪失感へと移ってしまいます。
・自分を客観的に観察する力は、心の平和を意識的に保つ力になります。

今回は、いじめの原因とは何かについて考えてきました。 現在、いじめの当事者として経験中の方や、過去当事者だった方の何かきっかけになればと思っています。

私自身も前の記事でお伝えした通り、過去当事者でした。 しかし、いじめの原因が人類共通の課題であることが分かり、日本には尊厳と対話する器が育ちにくい現状があることに驚いています。

正解のない問いに対して共に考える機会がもっと増えるきっかけをつくれたらと思っています。

ありがとうございました。

いじめはなぜ起きるのか

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